わたしの人生に伴走してくれた絵本

『100万回生きたねこ』は自分だった
「この絵本は、わたしの本」だと思った理由が
40代で母娘問題に直面して、やっとわかった。

きっかけは利用していた絵本の配本サービスだった。
毎月、絵本と一緒に届く会報誌には、絵本の紹介や
会員のお便りなどさまざまな内容が掲載されていた。

ある月『100万回生きたねこ』が紹介されたが
珍しく記事執筆者に酷評されていた。わたしには
強い思い入れのある絵本。ひどくショックだった。

こどもに不向きで、大人の絵本としても内容が浅い
というような書きぶりで、絵本の仕事をしていても
絵本の解釈は人によってこうも違うのかと驚いた。

次月の会報誌には『100万回生きたねこ』の酷評
記事に対する会員さんの感想が、匿名で掲載された。
わたしは、よくぞ言ってくれたと嬉しくなった。

そして、会員さんの体験から紡がれたその文章には
わたしが言語化できなかったことが書かれていて
号泣した。積年の胸のつまりが取れた瞬間だった。

その会員さんの文章を残していたのでご紹介します。

”愛されて育った人には、永遠にわからない絵本なのだと思います。“

◆私も、『100万回生きたねこ』は子どもには向かないと思います。「しぬ」が連発され、子どもに見せたいと思いませんし、「~なんかきらい」「生きてきた過去がすべて否定されている」など、おっしゃるとおり、子どもへの指標ではないと思うからです。
…。ですが、ねこが生きてきた過去を「きらい」ということ、白いねこに出会って変わったことに関しては、この絵本の意図は、川端さんのご意見とは別だと思います。
この絵本は、「幻想の愛の寓話」ではないと、少なくとも私は思います。”すてきな男性が自分を選んでくれる“なんて軽い話ではなく、最後の引用のように”家庭でも学校でも愛を教えてもらえなかった“人のための絵本なのです。満たされないまま大人になった人には、とてもよい絵本だと思います。
ねこが「~なんかきらいでした」と言うのは、自分の意思を否定され無視されたからではないでしょうか。…。どんなに親がかわいがっているつもりでも、愛されていると感じたこともないし、親が泣いても悲しいと感じることもないのです。感情が麻痺した心では、生きていないのと同じ。人生が楽しいと思えない、楽しくないから無いのと同じ。だから、ねこの人生は語られない。彼の心が生きていたことは一度もないから。…。過去を否定というよりも、過去が無いのと同じだったのです。ねこの生が「虚ろ」なのはそのためです。

…。本当の自分を受け入れてくれる人ができてはじめて、ねこは人生を歩みはじめ、そして本当に愛した相手が死んだ時、はじめて心から悲しんだのです。確かに、泣きくれて自分も死ぬ結末は、子ども達に何を残したかという点で見ればお粗末ではあります。ですが、幼い頃に自分の心を見つめてもらえず、愛されていると実感できずに生きてきた人間には、ねこが白いねこの出現ではじめて本当の意味で生まれ変わり、子どもが生まれて幸せに生きたこと、そして本当の悲しみを知り、満足して死んだこと、それだけで十分なくらい満足できる絵本なのです。
愛されない子どもであった大人の私は、ずっと涙が止まりませんでした。愛にさまよい、「生きて」いない空虚な生を送ってきた者が、本当に自分の意思で「生きて」いられるようになった時、はじめてこの絵本に出会って泣くことができるようになるのです。だから、愛されて育った人には、永遠にわからない絵本なのだと思います。…。(神奈川県のIさん)

初めての出会いから不思議な縁を感じる絵本。
10代から40代までわたしの人生に伴走してくれた。
絵本には、人を支える力があると思う。

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