心身ともに病んで老いてゆく母の姿を見ながら
わたしは、親を看取る時の不安を感じ始めた。
喪主になるのは、ひとり娘のわたしだから
必ず来る母を見送る時のことを思い浮かべた。
お葬式は故人のためにすると思っていたわたしは
母の過去の社会的立場や母の心の内を推し量った。
親孝行しようとする心の動きだったと思う。
母は公務員として長年働いてきて知人も多かった。
たくさんの人に見送ってもらえたら嬉しいのかなと
わたしは考えた。
認知症になる前の母に、数回、何かの話の流れで
「お葬式はどうしてほしいの?」と聞いたことがある。
母の実家の宗派でしたいのか? 何か思いがあるのか?
と、話をしてみるが、特に希望と思えることはなかった。
母はそれらしいことを言うが、決まって最後には
「どうせワタシが死んだらアンタの好きなようにされんにゃから」
と、なぜかせせら笑うように言った。
わたしは母を見送ることを思い浮かべると
「お葬式って一体誰のためにするんだろう?」と考え出して
葬儀屋を始めとするいろんなサイトを読むようになった。
読んだ情報の中で、わたしに一番しっくりきたのは
故人と関わりのあったすべての残された人たちのために
お葬式をするという考え方だった。
わたしの心にスッと入ってきたエピソードがあった。
それは次のような内容だった。
駐車場の管理人Aさんが亡くなった。
働くのが好きなAさんは定年退職後アルバイトをしていた。
Aさんが定年まで勤めた会社関係のつきあいはなくなっており
Aさんのご家族は、近親者だけに訃報を伝えて家族葬にされた。
お葬式当日、Aさんの出棺の際、建物の周りには
Aさんにお別れするために集まってきた人たちが溢れていて
霊柩車が通る沿道にも、霊柩車に深々と頭を下げる人たちが。
こんなにもたくさん、Aさんを慕う人がいたのは
駐車場で料金の受け取りや入出庫の際の短いやり取りの中で
笑顔で挨拶して声をかけ、人を気遣ったり励ましたりして
Aさんが一対一の人間関係を築いておられたからだった。
Aさんに、家族も知らない交友関係がある可能性や
どうしても最期のお別れをしたい人がいるかもしれないことを
まったく考えていなかったと、ご家族は悔やまれた。
そんな内容を、おぼろげな記憶から思い起こした。
わたし自身、亡くなった友人に対面してお別れができなくて
いつまでも心残りを抱え続けた経験があった。
故人と関わりのあった人たちが人生を前向きに歩めるように
故人を見送ればいいのだと、わたしは考えるようになった。
そして、母が亡くなった時、生前に母が言った
「どうせアンタの好きなようにされんにゃさかい」
の言葉どおり、本当に、わたしの好きなようにした。
葬儀場を利用した、喪主自ら読経するオリジナルな家族葬で
わたしのためのお葬式で、母を見送った。
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