明け方に亡くなって、その12時間後にお通夜。
次の日の午前中のお葬式で、母を見送った。
お通夜を終えて、わたしは夫と話し始めた。
「ばあばの人生って、いったい何やったんやろ」
わたしは
「人として成長してこそ、人生には価値がある」
そう思ってきた。
自他ともの成長を感じる喜びが人生における至福で
これは、万人に共通しているのだと信じていた。
だから、わたしは、母の人生を否定してきた。
もっと言えば、くだらない人生だと馬鹿にした。
母は、何十年も同じことをくり返し言う人。
止むことのない不平不満、愚痴、文句、嫌味、悪口。
わたしは、何の成長も変化もない母を見続けてきた。
母は、金品など物質的なものや形式的な儀礼をツールに
して人間関係を作り、目に見えない心ではつながれない。
念願叶って同居したのに、ひとり娘に疎まれ続けた母。
そんな母の人生は、本当に
価値がなかったのだろうか、不幸だったのだろうか。
わたしは、自問自答を始めた。
母の人生の価値を決めるのは誰?
母の幸不幸を決めるのは誰?
ああ、わたしじゃない。
娘といえども他人。他人には決められない。
「人として成長してこそ、人生には価値がある」
「人生はこうあるべき」というのは
わたしの理想で固定観念で、思い込みに過ぎない。
人が亡くなると、周囲の人間は
故人の亡くなり方や亡くなった年齢や時期を聞いて
寂しい人生、無念の人生、満足の人生だったと
故人の人生を査定するようなことを言う。
わたしも、自分の定規で母の人生を測っていた。
でも、他人の人生を評価するのは傲慢なのだ。
たとえば、食べて寝るだけの人生。
自分のことしか考えない人生。悪事を働く人生。
傍から見れば、しようもなく見える人生にも
その人生を生きている本人にしか知り得ない
人生の尊さや醍醐味があるのかもしれない。
価値のない人生なんてないんだ。
母の死に顔は、穏やかだった。
母の入院中に見た、目の奥に怒りを湛えた母の顔が
焼き付いていたから、ほっとした。
満足しているような母の死に顔を見て、夫は
「ばあばの人生は、まさみのための人生で
脇役に徹した人生やったんとちゃうか」と言った。
わたしが成長するために、母娘関係をとおして
経験や気づきを与え続けるサポート役、脇役として
母は、母自身の人生を生きたのではないかと。
もしかしたら、そんな人生もあるのかもしれない。
生まれる前に、母娘問題という人生テーマを決めて
人生ドラマの脚本、配役、キャラなども設定していて
実は、母もわたしも、承知のうえだったとか。。。
「母の人生は誰にも認められないのではないか」
そんな、親を看取る時の不安を持っていたけど
認められようが認められまいが、価値は変わらない。
誰の人生もどんな人生も、すべての人生に価値がある。
わたしは
生を全うした母の人生を、全肯定で受けとめ直した。
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