次々とデイサービスを退所させられていった母は
とうとう精神科病棟に入院することになった。
入院前の診察で、わたしはアルツハイマー型
認知症の母が一瞬正気に戻ったところを見た。
診察後そのまま、母とわたしは一緒に病棟に上がり
看護師に案内されて母は病室に入って行った。
病室への入り口は、鍵のかかったガラス扉が二重に
なっていて、ガラス扉の隅には生気のない目をした
入院患者たちがしなだれかかって固まっていた。
わたしは看護師に呼ばれて
ナースルームの窓越しに母の様子を見た。
昼食時だったので、大きなテーブルのある食堂で
相席で座っていた。母の片側は空席で、人がいない
空(くう)に向いて繰り言を言っていた。
そんな人は母だけじゃない。
身体拘束しないというこの病院で
暴力的攻撃的になる怒りなどの感情を抑えるために
母は投薬治療をする。
さっきのガラス扉の隅に固まっていた人たちのように
母にも生気がなくなってしまうのか。
母を入院させた自分に対して
自責感や罪悪感がうず巻きそうになった。
でも、忍びない気持ちにはなったけれど
心を自責感情に奪われてしまうような
頭に自責思考が取り憑くことにはならなかった。
母の娘をやめたことでできた心理的距離によって
わたしには、自分の心を守る境界線ができていた。
3ヶ月の入院期間中、わたしが見舞いに行ったのは
一回だけ。夫に付き添ってもらった。
無機質な病室には、部屋の真ん中にベッドがあるだけ。
自分で立てなくなり言葉も出なくなった母が寝ていた。
「アンタ、ワタシをこんなとこに入れて💢」
母から、そんな心の声が聞こえた気がした。
わたしは、うつろな表情をしている母の目の奥から
強い怒りのエネルギーを感じ取った。
やっぱり薬で、感情が消えることはないんだな。
わたしは、これまで事あるごとに、母との同居中に
起こった出来事の「たられば」を考えてきた。
「もっと、わたしに懐の広さがあったら、、、」
「もし、あの時、こうしていれば、、、」
母とうまくやれていたのではないか?
現実は今と違っていたのではないか?
そんな思いが湧いてきては、自問自答を始める。
でも、必ず答えはNOと決まっていた。
過去の自分が、度量がなくて未熟で自己中でも
その時の自分の最善を全力でやり切ったと思うし
過去の自分が、もっとデキた人間だったとしても
母に関してだけは、そうしかできなかったと思う。
「いや、あれは、どうしたって無理やで」
そう思い切れるから、自分で自分を赦していた。
世間の常識や社会通念では、非情と思われるだろう。
娘をやめることにした、母子家庭のひとり娘の自分。
近くに住んでいるのに、認知症の母に近寄らない自分。
わたしには、母よりも、自分や自分の家族を選択した
自覚が明確にあるから、何度振り返っても後悔はない。
後々、自分が後悔するかもしれないことまで覚悟して
非情になると自分で決めたから。苦しみも自己責任。
母に一番近い身内のわたしが、自分自身に課したのは
ただひとつ。母の最期を見送る、お葬式を出すこと。
さすがにこれは投げ出せないと思った。
だから、いつ来るかわからないその日のために
母が亡くなる前に自分が燃え尽きてしまわないように
母に接触するのをやめた。
3ヶ月の投薬治療が終わり、退院の連絡が来て
わたしは、おとなしくなった母を迎えに行った。
車いすに乗る母の背後に立って車いすを押さなければ
ならないが、動悸がしてきて至近距離に立てない。
わたしは、肘を目一杯伸ばし腰を引いたおかしな格好で
息を止め車いすを押して、福祉タクシーまで移動した。
入居していた施設(サ高住)に戻ってきた母は
排せつや食事に介護が必要になり
会話も歩行もできなくなって、寝たきりになった。
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