母の情緒不安定が加速していったのは、明らかに
わたしが40代で反抗期を迎えてキレた一件からだ。
わたしのキレっぷりが相当ショックだったのだろう。
30代でわたしの人生の課題は病気ではないと気づいた。
でも、母にお皿を投げつけ感情をぶちまけたい衝動が
わいても、わたしは感情を押し殺した。
感情を受けとめるなんて母には無理、耐えられないと
思ったから。向き合う力のない母はその場から逃げる。
離婚に至った経緯もたぶんそれ。
キレた娘を受けとめられない、向き合えない母は
もう認知症に逃げるしかなかったのだと思った。
わたしの思ったことの裏付けになるような記事があった。
「自分の人生を生きていないとき」人は病気になる
人は言葉で表現できないとき、体で表現を始める
病気は必ず人間関係に問題を抱えている
あの一件後、母は頻繁に
賃貸住宅のちらしやパンフレットを持ち帰ってきた。
そして、事あるごとに、母の口をついて出るのは
「もうワタシは田舎に帰る」
「近くにアパートを借りてひとりで住む」の言葉。
わたしはそれが、母の本心ではないとわかっていた。
「そんなこと言わんと、ここにおってーな」
と言う言葉を、母が期待していたことも。
でもわたしは、とっくのとうに
心にもないことは言えなくなっていた。
しかし本音とはいえ
さすがに「出て行って」と言えないわたしは
「お母さんがしたいようにどうぞ」と返した。
そんなやりとりを何回したかわからない。
母は「家を出て行く」と言うだけで行動に移さない。
だからといって、わたしが事を進めようとして
「じゃあ(物件を)見に行こう」などと言って
母の情緒不安定に拍車がかかるのが怖かった。
わたしの流産直後に実母から食らったダメージは
強烈で、母に関わるエネルギーは根から枯れ切った。
母の娘をやめたわたしは、家にいるのは
頭のおかしな遠い親戚と思って生活していた。
現実から心を切り離して逃げたのは、わたしも同じ。
自分の家で寛ぐことも泣くこともできなくなっていて
安心して感情を解放できる場所も、時間もなかった。
本当に一人になれるのは、車の中と仕事の日だけ。
こどもたちを保育園に送った後や、迎えに行く前の
車の中で一人でいられる時間に、泣けるだけ泣いた。
幼児教室で講師をする週1回の仕事の日は、教室で
一人、レッスンの準備をしながら涙を流した。
そんな風に、ピンピンに張り詰めた心を緩めながら
絶望感しかない同居を続けていたわたしと母の前に
救世主があらわれた。
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